昭和57年06月18日 月次祭



 研修の後でしたけれど、金光青年が送ってきておりました。それに最近合楽の事を二回に渡って書きましたね。皆さんが沢山求められましたでしょう。そのあと玉水教会の記事が載るようになりました。それを今日も読んで貰いましたが、ほんとに合楽で今言われておる信心、いうなら神様の心をとらえて外さんと言った様な感じ、神様の心にこれなら通うと言った様な感じ、それを初代の先生がお話になっておったのをご信者さん方、貰った方達が先生はこう教えられた。
 こうお話になったという記事で一杯で御座いしたが、終わって四時のご祈念に入って、その事を神様にお礼申させて頂いておりましたら、合楽の扇子と玉水の扇子が、をこう二本並べてここの要のところが、一本の線で要のとこだけがずうっと一緒になっておる所を頂いた。肝心要ですね、肝心要のところが玉水の言うなら信心と合楽の信心は通じておると、ま、言うことだと思いました。肝心要と言うのは一つですけれども、二本の扇子がつながっておる、要のところで。
 だからいわば末広というからね、扇子は。広がりに広がっていくのだというお知らせを頂きました。ですからね合楽で頂いておるのはもう広がりに広がって行く事のできれるお話なんです、内容なんです。ですからそれを頂かない事には皆さんも広がりに広がるという、皆さんの持っておる扇子と、私の扇子とがこの要の所が繋がっておると、言う様なおかげを頂かなければ。所謂広がりに広がるというおかげにはなって参りません。
 中々もうとにかくもう一人一人のお取次をなさるという、もう一人一人というもの実に適切な御理解だったそうですね。まっ、私は合楽の事を思うてみて合楽の場合もそうだと思うんです。一人一人に適切なんです。ですからいかに適切であってもそれをただ感じただけでなくて、ほんとに自分のものにして血肉にしていかなければ同じなんです。あるご信者がその当時市内電車が走っておるどこからどこまで5銭です。だから今日は修行させて頂いて歩いてお参りをさせて頂いたというご信者があった。ね、
 まっ、自分は修行した積りであったであろう。でその事を取り上げて、どっちが本当かというその議論のあっておる所に、先生がおいでられてからね、仰った事はタクシ―で来てもいいよと仰ったそうです。ね、まっ、その時分はまだ円タクと言いよった時分でしょう。どこまで乗っても一円と言った様な時代の、ね、5銭の電車で来れる所を一円の金を払うて参ってきてもそれは贅沢ではないよ。まっ、大阪当りの商都と言われる商売人の町ですから、それこそ時は金なりと言う様なふうに申しております。ね、
 それこそ時間をかけてじゃなくて、ね、あっという間に言うならお参りをして、またあっという間に帰ってそして自分の仕事なら仕事として頂くと言う。まっ、その事を詳しくは仰らなかったけれどもそういう調子であった。あんたは商売人だから、たまにはお客さんと一緒にお酒も飲みに行かなきゃいけないだろう、茶屋通いもしなければならんような事があるだろう、いけない事はないよ行っていいよ、飲みにもいってよしお茶さんにもいいけれどもね、そういう時にはお詫びをしていけよと仰った。
 信心さして頂くものが、そんなこっちゃいけないというふうじゃなかった。いうなら合楽で言われる人間が人間らしゅう生きる、と言う所の都合のよか所だけば、人間が人間らしゅう生きる、これは人間じゃなからなければ、出来ないと言う様な修行は疎かにして、ね、ただ楽になるふうだけの事を、人間が人間らしゅう、はぁ合楽の信心は中々ドライで割り切ってあるから、楽なと言う様な頂き方ではおかげにならんと思うですね。
 これは人間じゃなからなければ出来ない、修行をさして頂いて初めて人間が人間らしい、いやそれも一切に御の字を付けて頂く、頂き方もあるのだけれども、都合のよい所だけではいけない。所が酒飲みに行ったりお茶屋さん通いする時だけ、はぁ大先生がそう仰ったからというてお詫びをして行く所を、忘れておると言った様な話が出てきて、今日の中に出てくるんです。ね、
 矢張りこう天地乃親神様の心をなんていうでしょうかね、通わずにはおかん、えぐるような言うならばご発言ですね。それをま頂かせて頂きながら、それを現代風にいうならば解き明かしていっておるのが御理念であるというふうに思います。だから御理念によると言うことはもう神様の心を心とした、ね、今までお粗末御無礼と思うておる事もむしろお礼を申し上げなければだ、になってくるわけですけれども、ね、今朝からの御理解の中にも神も喜び金光大神も喜び氏子も喜び、と例えば。
 三者一体喜びあえれるおかげとはどういうおかげを言うのであろうかというのが今日の御理解でした。お願いをしましたら、ね、こういうおかげを頂いた、お願いをさせて頂いたらこういう開けないはずの道が開けたと言うだけでは氏子がたとえば願ったものが成就したというて喜ぶだけで果たして神様が喜んでくださったか分からん。これなら絶対神様が喜んでくださるというおかげとは、ね、天地がすぐバックである。天地があなたのためにいつも働いておられる。
 いや私のために、私を中心に神様が働いておってかのような実感を持っての日々の信心生活。御理念によりますとそれが出来きるですね。ね、ほんとに言うならリズムに乗るとか申します、素晴らしいタイミングが生まれてくるというふうに申しますね。ね、そういうおかげをいよいよ育ていく。ね、今日はある教会のもう長年総代をなさっておられるという方が先だってから二、三回お参りになった。というのがその教会がもう七、八十年ぐらいなる教会なんです。
 教会は小さいお教会ですけれども、そこの記念祭がこの十一月に執り行われます。先生がそのご大祭に今度のご大祭には、まっ、これこれの経費がかかろうごとある。まっ、ひとつおかげを頂いてもらわねばという、それがこの記念祭を二百万円で、はかかるというのである。ね、それを聞かれたときにその人がその二百万円を私は借金してでもおかげ頂こうと腹を決めた。そのことのお繰り合わせここに願いに来られたのです。でそんときに私が借金しててんなんてん言わずにね。
 本気で願うたらおかげ下さるですよ、本気で願いなさい、ね。いうならば記念祭と言えば、ね、神様がいうなら喜んでくださるお祭りにするために氏子の真心を結集して、なら二百万円を三百万もかけてでもお祭りをでけるようなおかげを頂かなきゃならん。もうそんときに初めて目が覚めたような思いがしました。問題は、ね、決心をするといういても、一心を立てるというても、ね、それが神様の心に叶う一心でなからなきゃいけないということが分かりますね。
 神様が借金することを、借金してからお供えしたつを神様が喜びなさるだろうか。それよりも神様あなたのおかげでこの二百万がお供えできますと言うようなお繰り合わせを頂いて、ね、それが出来られる神様、問題は一心をおかげ頂いたならお供えしょうと言った様なもんじゃいかん。あなたはいわば借金してでもと言うておられるのだからそこの所を神様の御心に通う、ね、その一心なら神様に通ずる。所がおかげを頂いて不思議な不思議なおかげを頂いて先日それをお供えする事が出来ました。
 昨日はその先生方へ記念品をお配りしなきゃならない。それを有田までその陶器類の記念品を治めると言う事になったのでしょう。でそちらで素晴らしい、こちらの親先生は大変お茶をお好きだと言う事でしたから、その、まっ、どうか分からん開けて見とらんけん。けども自分としては立派なそのひと揃いと玉露を一缶、ね、お礼にもう11月の記念祭の記念品がもう足ろうたとこういうわけなんです。
 ここでも10月が記念祭ですから、皆さんも本当に決心なさらなければいけませんよ。まだ何にも合楽ではでけとら。ね、けれどもそういう一心を立てる人が、ね、でけて初めてなら記念祭が仕えられる。私は是は記念祭だけの事じゃない。もう本当はその一心なんですどうでもという一心なんです。その一心どうでもというその一心が、是は銀行から借りてからでもという一心ではなくて、ね、その一心があるならばその一心を神様に向ければ神様が喜んで下さり。取り次いで下さる金光大神も喜んで下さり、ね。
 お供えをさせて頂く氏子も喜びと言う事になるのじゃないでしょうか。ね、あの氏子は中々真心の厚い氏子じゃ、銀行から沢山借金してからまでお供えした。ほりゃほんとに感心な氏子じゃあると仰るでしょうか。私ば力んなかごと思うとる。私には頼まんな、銀行どん頼んじからと思いなさりゃせんでしょうか。ね、その辺の所の信心の機微というものがね、体得させて頂きゃならんと。
 昨日の研修のときに、丁度研修前に鳥栖の上野さんの家内が、ここの琴の楽の御用を頂いとる上野さんとこの息子嫁、頭がいいとでしょうね、もうとにかく合楽の信心、最近あちらでその共励会が毎月あるんです。ですからその合楽の信心の素晴らしい所をぐいぐいこう進めて行っておる。今度の合楽だよりの神愛蘭にも書いておる人がそうなんです。お話でもなかなかそりゃもうぱったりとん言わんごたあるお話をします。
 それがこの頃から兄弟がね、ある事業に失敗して銀行から金を借りた。そんときの保証人に立った。それがその倒産したもんですから上野さん所が払わにゃんごとなった。けどもそれを主人の働きの中からでは出来んから、もう子供達も大きくなっておるから私がアルバイトでもさせて頂いて、その自分の里の弟の事ですから私が働いてそれを支払っていきたいと主人とそれを相談しまして、そのここへ夫婦でお願いに見えました。
 そりゃまお繰り合わせをお願いしとこうと言うとりましたら、ふた所に履歴書を出して一つをお父さんが銀行に勤めておりますから、その銀行関係の務めの所を、に参りました。昨日行った。所があのあなたがお出でられるのなら、明日からでもよいですよとこう言われた。所が色々説明受ける所が大変難しい、とても自分ではでけそうにない。と言うので銀行から直接ここへお参りしてきたのが丁度三時の研修が始まろうとする直前であった。ね、私は丁度私の部屋からここへ出てくる時に。
 丁度テレビをちらっとそれこそ見せて頂いたのですけれども、丁度鳥栖のね文化サークルか、ね、そうだったか、ね、その一日放送局というのがあっておった。そこで鳥栖の有名な写真家のかたで、小鳥専門に撮る人がある。中々あの佐賀当りにはめったに良い鳥がやってこないんだそうですけれども、やっぱそういう珍しい鳥を何枚も写して見せてある、テレビで映しておりました中にね、こうせみの写真があった。鉱泉というのはこう谷間をきれいな谷間がありますね、あれは空飛ぶ宝石というのだそうです。
 空飛ぶ翡翠というそうです。そんなに綺麗な鳥なんですね。そのこうせみがね、魚を銜えた瞬間をとらえた写真でした。勿論カラーですからその見事な写真。私はそれを見てはぁ何でもひとつのやっぱ執念のようなものがいるなぁと。たまたまそれにじゃなくてもういつもその事に、専門にとっておるその方がです、ね、しかもそのこうせみが魚を加えた瞬間をカメラに収めてある。信心も同じだなともうそれこそ一瞬一瞬を、大事にした信心でなからなければそういう素晴らしい。
 おかげにはならないなと思うてここへ座ったら、鳥栖からのそのお参りであったから、今ね私は鳥栖で今日こんなことがありよったばい。はぁも、百名からの婦人部の方たちが、鳥栖音戸のこうやって踊りよんなさる。ほうら雨はジャンジャン降りよる。広場には水がたまっとるもん。したらアナウンサーのひとが言いよりました。もう今日は仕方ありません。もう昼から降り出した雨は降りやまんちゅうから、もうやりましょうち。雨ん中でやってるわけ。
 私は見ながら思うた。伊万里の市長さんだったらたとえば降りよってもさあ、今から始まるちゅうなら降りやむじゃろうばってんなと思うた。ね、そういうおかげの頂けるのが合楽の信心です。ね、いうなら合楽の信心の要の所が繋がっておればそういう天地が自由になるほどしのおかげ、あなたのために天地が自由なって下さると言う様なおかげが頂けるのが御理念によるおかげなんです。ね、そいで私がその話を鳥栖の上野さん所の嫁ごに話した事でした。ね。
 一瞬一瞬を大事にして、でけそうにもない所を、まっ、しっかり神様にお縋りしてやらして貰いなさい。主人の足を引っ張る様な事になってはならんとこう言う。引っ張ってもいいじゃないか、主人じゃからあんた主人から引っ張られてもろうておかげを頂けというてま、腹が決まったような感じで、まっ、そのまま帰ったと思うておった。それから研修が始まった。研修でもその話をさせて頂いた。
合楽ではほんとに日々が生きたお取次、生きた働きがいつもありどうしにあっておるのは、私が一瞬一瞬を大事にしておるからだという話を先生方にしたんです。その話を上野さん聞いておった、最後まで。終わってからここへ出て来ました。もう腹が決まったときがいよいよ決まりました。元気が出ました。どうでもひとつおかげを頂きたいと思いますからと言うて改めてお願いにまたここへ出てきたんです。
 それが先生実は今日あちらに参りましたら、ね、もう神様の働きを受けておるなと言う事は感じておったけれども、腹が決まる所までいってなかった。丁度支店長が留守で副支店長の方でありましたが、その副支店長の方が明日からでもいいですよというて頂いたその方が、大坪エイシロウという人じゃった。ほう大坪栄四郎ちうちだけしかと思いよったらよそにもやっぱおるばいなと思うた。ね、つながってる合楽と。それから自分を教導してくださるその方が紹介されたその方が赤司という方であった。ね。
 そんとき自分も思いました、赤といゃ信心の熱情といわれるが、ね、その熱情が、ね、司ると思うておったけれども今日今の先生方の研修を頂きよって色々その事を感じたというのです。本気でやろうと一心が出来た、ね、その赤い心がでけない所もでけるように司って下さる。しかもいうならば大坪えいしろうと言う様な人が支店長さんで、今日自分に明日からでも出て来て下さっていいですよと言うてくださったんだと。ね、
 どうですか言うならば上野さんの嫁さんの、を中心にここで頂いたご理解といい、丁度鳥栖のひとに私が鳥栖で、今日さっきからあっておったニュ―スの話をさして頂いた。そしてその一瞬一瞬のお話を聞いてもろうた。その一瞬一瞬を大事にして行っておる時には、神様からもそれこそ神様が私を中心に働いておって下さるかのような働きがそこにおこっておる。その働きを受け止めるということも、キャッチすると言う事も心を神様に向けるその一瞬一瞬を大事にするからだ。
 お参りをしてきた。もうツーっと帰ったじゃなくて、また先生方の研修を聞かせて頂きながらその中に自分の話が出てきたからなお一心に聞いておるうちに本に今日はこうだったと腹が決まったというのであります。皆さんそういう、皆さんの場合でもいつもそれがあるでしょう。自動車のナンバーでおかげを頂いたとか、テレビを付けた途端に自分の思うておった答えが出てきたとかと。だから結局それをね、言うならばいよいよ育てていき、それを徳にしていくと言う事なんです。
 今日高松先生がお知らせを頂いておるのに、乞食信心ではいけんと言う事を頂いた。四神様のご時代にあるご大祭のときにそれこそ境内を埋め尽くすほどしのご参拝があっておった。ある先生が四神様、ほんとに有難い事ですね、ほんとに境内を埋め尽くすような信者が集まっておりますと申し上げたときに、さあなこの中に真の信者が何人おろうかなと仰ったそうです。ね、合楽でこうやって沢山の人がこうやってお参りをさせて頂いておるが、ほんとに真の信心が分かりたい。
 今日の月次祭の御理解の中から、その真の信心の手立てを一言でも頂こう、と構えをつくってお参りをしておる方たちばっかりだと私は思いますがね。どこをどう頂くか、果して今日高松先生が頂いておるように、ね、乞食信者に乞食教師ばっかりじゃないだろうかと。これも今日ある宮崎の教会からここに参ってきたことないけれども、ちょいちょい電話でお願いをなさる教会がある。
 この頃から記念祭で御普請がでけた所が、中々支払いがでけんので、先生が勤めに出られる事になった。ね、勤めに出てお金が入って来る事はよかったけれども、信者に難儀な人があってから大変人情家である。だからその賞与でん月給でんその人に貸してしもうたら、ちゃんとその人がドロンして逃げてしもうた。そいで私が申しました。人情に見切りをつけなさい。神情一筋でいきなさい。そこから湧いてくる人情なら、有難いけれどもね、さあそこにノートしなさい、というて私はいまのその、ね。
 人間心じゃ助かりもせんし、いうならば折角出けたお広前の借金払いもでけない事になる。というて、まっ、お話をした事でございますけれども、とにかく乞食信者に乞食教師があまりにも多い。はぁ信者が欲しい信者が欲しいとこう言う。ね、乞食根性でしょう。すぐおかげが欲しいおかげが欲しい、これはね乞食信者でしょう。貰いたい貰いたい、神様があの氏子にはやらずにはおかん、あの先生の所には信者を集めずにはおかん、というそういう神様の働きがね。
 今日私が聞かせて貰ったった玉水の先生のお話をま、数十年前に亡くなられた先生ですが、彷彿とする思いでした。先生のご信心というものを。ね、これを現代風に言葉を換えたらそれこそ御理念と言う事になるのじゃないかと思うような節々を感じました。ね、ですからね、合楽ではどうしてもね、なるほど先生が仰っておられる、私の信心は下品な、品が悪いと言う事は。ね、必ずおかげを頂かにゃならん、おかげは渡さずにはおかん、という信心であった。
 その代わりに信心も渡さずにはおかんというのが、もう朝から晩まで、もうあちらはこの先生がご祈念が終わられると、お広前に出られる。そすとその火鉢を囲んでいつも四、五十人の信者が一日中お話を頂いておる。もう一生懸命にお話をされる。ね、いうなら話を聞いて心が開ける。ね、神様は、先生は氏子の心はおかげの受けられる受け物を開いてやっろうと一生懸命なさる。心が開ける。
 だからおかげを頂いた。おかげおかげと言う事は下品なごとあるけれども、金光教の信心はおかげを頂かなきゃいけんが、おかげだけではに、そのおかげを頂ける心というものが開けなければならない。ね、合楽の場合今朝からの御理解に、神も喜び氏子も喜びと今の教会の記念祭の事を聞いて頂いた様に、借金をしてお供えをしたんでははたして神様が喜んで下さるだろうか。そこん教会長先生は喜びなさるかもしれんですね。
 けれども金光大神は喜びなさらん。そこで合楽にお参りさせて頂いて頂いたご理解がです、あなたが本気で借金してでもお供えしたいという心あらば、ね、その心を神様に向けられたら、借金せんでもおかげ頂けますよ。そういう力を持たん神様じゃないですよ、氏子の一心を受けなさらんはずはないですよ。まだ一カ月二カ月にならない程度ぐらいなことですけれども、不思議な不思議な、もう記念祭は十一月だと言うのに、記念品の調達に行けれるほどしのおかげを頂いたというのである。
 そういうおかげであって神も喜び氏子も喜び金光大神も喜び、またお供えをさせて頂くその氏子そのものも力を受ける事であろう、おかげを受けたとして喜べる事であろう。ね、今朝の御理解はその三者一体が喜べるというのは、天地があなたのために自由になって下さるほどしのおかげを受けた時に、神も喜び氏子も喜びと言う事になるだろうという今日の朝の御理解でした。それを皆さんは時々でも感じておられるでしょう。素晴らしいタイミングが生まれてくるでしょう。ね。
 それこそ上野さんの・・じゃないですけれども、ね、ただ難しい難しいとても難しかろうと思うておるから、神様の働きがおぼろげになっておったけれども、お参りをして御理解を頂かしてもろうたら心が生き生きとして弾んできた。しかも今日の神様の働きを生き生きとして愈々大坪えいしろうの中から感じた。赤司という人の中から感じ取っていよいよ度胸が出けた。神様の心を向け心を燃やそう、赤い心になろうと言う様なね、上野のその上野さんを中心に神様が働いておられる。
 それをなら今日昨日だけではない、それをいつも頂けて行くようなおかげを頂いて行くためには愈々御理念に基づく生き方、ね、その一瞬一瞬を大切にしていく生き方から愈々それが段々ほんとな小さなものが段々大きく育って行く様におかげを頂いて行く事である。そういうおかげをね、頂いて初めて子や孫に伝わっていく。有難いばい、もう治らん病気が治ったよ。金光様の信心しなさい。
 開けんはずの道が開けるよと言う位な事では子どもはついちゃこんけれども、それこそ天地が私ども私ども一家の上に働いておって下さる印を例えば子供たちが見たり聞いたりしていくならば、その信心をまた継承せずにはおられんと私は思うです。金光様の信心ちゃ有難い、それをまず信心を頂くものが自分の心にそれを感じれる、ね、だから人に言うてもほんととは思われないようなその実感を愈々育てて、誰が見ても聞いてもなるほど神様じゃなぁと思う様なおかげに育てていかなければならない。
 合楽の信心の間違いなさと言う事をです、先ずは知る事は成程当時日本一と言われた玉水教会、今でもやっぱりおそらく日本一でしょうね。ごひれいが落ちない。もう隆々としたごひれいを頂いておる教会ですが、ね、いうならば先代の信心を見たり聞いたりしてそのそれが信者にも伝わっておった。ね、それをなら今日は四時のご祈念にです、ね、広がりに広がっていく扇子をお示し下さって、これが合楽の扇子これが玉水の扇子、その扇子の肝心要の所が一本の要で繋がっておるというお知らせで頂いた。
 肝心要の所が、あちら大阪商都と言う所、ここはま田園教会ですから違いはするけれども商品こそ違うけれども、ね、その神様の芯に通う、神様の心を貫かずにはおかんという働きが起こって来る様な教えをお互い日々頂いておる。だからそれをその時その時のものにせずにね、それを愈々育てていくという信心をです愈々
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